先月の25日~26日に、千葉県議会民主党会派の視察で、宮城県気仙沼市へ行ってきました。
東日本大震災から約4か月過ぎた今も、多くの方が避難生活を送っている被災地。「視察が迷惑になるのでは」という危惧がありましたが、「被災地の状況を知り、それを正確に伝えることが、支援の継続につながる」という現地の声を受け、できるかぎり負担をかけないよう配慮しながらの視察でした。
一ノ関駅からマイクロバスに乗り換えて、民主党の宮城県議会議員 内海太氏と合流。内海議員の案内をいただきながら、被災の爪跡が今なお色濃く残る市街地をマイクロバスで通り、気仙沼市役所へ向かいました。
市街地は、ガレキがある程度まとめられているものの、ほとんど手がつけられていない状況。テレビで繰り返し放映された、震災発生直後の気仙沼の津波や火災の映像が脳裏に蘇り、亡くなったたくさんの方、今なお行方不明の方のことを思うと、言葉を失うばかりです。
気仙沼市役所では、被害の状況や現在の被災者の生活などについて伺いました。
7月22日現在の被害状況は、死者993人、行方不明者419人、住宅被災12,914棟、未だ37の避難所で1,654人の方が避難生活を送られています。
ライフラインの復旧や応急仮設住宅の建設などが急ピッチで進められているものの、自衛隊、警察、海上保安庁による捜索も続いており、まだまだ「被災の渦中」にあるような状況でした。被災者の方々は、住宅、車、家財など、全てを失ったと言っても過言ではない状況で、継続的な支援の必要性をひしひしと感じました。
その後、避難所となっているサンマリンホテル気仙沼観洋と気仙沼中学校を訪問しました。
ホテル観洋は、高齢の方や持病のある方など、学校などの一次避難所での生活では「生活不活発病」(生活が不活発なことが原因で、心身の機能のほとんど全てが低下すること)のリスクが高い方を中心に受け入れを行った二次避難所。現在も157人が生活されています。ケアが必要な方には、個別に訪問して、声かけをしたり、散歩に誘うなど支援を行うとともに、食堂でのお茶会や体操を行うなどの交流機会を設け、引き籠ったり塞ぎこんでしまわないよう、対応をしてきたそうです。
気仙沼中学校では、182人の方が体育館で避難生活を送られていました。体育館には世帯ごとにテントが張られ、ある程度のプライバシーが保たれており、みなさん落ち着いて生活されているご様子でした。しかし、その「落ち着き」は、長い避難生活が「日常」になってきていることでもあり、避難されている方々が向き合ってきた日々の重さを感じました。
ホテルでも中学校でも、笑顔で活動されている多くのボランティアの方々に出会いました。
震災以来、宮城県で活動したボランティア数は、震災から4カ月後の7月12日集計で、301,006人にも上るということです。
写真は、気仙沼漁港の状況。ホテル観洋と気仙沼中学、2つの避難所を訪ねる途中に視察しました。
港もその周辺にあった水産物の加工工場も壊滅的な被害を受け、漁業再開の見通しは立っていません。
気仙沼は、さまざまな生鮮魚介類の水揚げでも有名ですが、フカヒレの生産量全国一で、国産フカヒレの80%が気仙沼産という、圧倒的なシェアを誇っていました。震災後は、多くの業者が銚子に移って事業を続ける一方で、若い後継ぎたちが、気仙沼ブランドを守ろうと「フカヒレブランドを守る会」を結成。私も直接お会いして話を伺いましたが、産業復興に向けた力強い決意が感じられました。
最後に応急仮設住宅を訪ねました。
気仙沼では、合計3,405戸の仮設住宅を建設・確保し、避難所の終息を目指しており、準備が整った住宅から順に入居が進められています。
応急的な住宅であっても、避難所で送る「生活」と住居で送る「暮らし」には、平穏さに違いがあるように感じました。
大きな困難に遭われてもなお、笑顔を向けてくださった被災者の方々に、気仙沼の復興の希望を見たように思います。
街は、道路や建物ではなく、まず、人で成り立つものであることを、再確認した視察になりました。
忙しい中、受け入れてくださった関係者の方々に、深く感謝いたします。